昭和49年06月10日 朝の御理解
御理解 第89節
「此方の道は傘一本で開くことができる。」
大変色々その範囲を広く深く頂かせ頂く御教えです。いと簡単に言葉身近に見せておられるのですけれども。傘一本という事に大変意味が慎重であります。開く事が出けると言う事は、おかげを受ける事が出けるという風に頂ける。または、お徳が頂けるという風にもです。それを全ての事が、寝ながら成就するという風にも頂ける。成就すると言う事。そこで私は、傘一本で開く事が出来ると言う事を、それを信心一心ですか、ね、あの唄の文句じゃないけれども。
やろうと思えば出来ん事はないという一心だと思うんです。ね、だからやろうと思えば何事も出来ると言う事なんです。やろうと思わんから出来んのである。だからやろうと思うという一心と言う事は、傘一本じゃと言う事と同じ意味だと思うです。ね。だからもう実に簡単明瞭です。やろうと思わんから出来んのである。また信心させて頂く者はね、この一心をね、出すと要するに。教えに頂いておりますように、その一心が矢張り出なければいけません。ね。
朝参りしとってもそうでした。本気でやろうという一心を立てれば出けん事はないです。出けないのはそれは皆自分の手前、自分の都合の事が先になるから、都合の良い事ばかり先になるから都合が悪い事がございましたから。又はちゃんとその忘れちからと。やろうと思うという一心。言うなら傘一本がないからです。私は今日はその開く事が出来んとこう仰る。開く事が出けんおかげを頂く事が出けん、道を開く事が出けん。出来るか出けんか、一応やってみろぐらいな事では駄目です。
昔の先生方今でも同じ事でしょうけれども、布教なら布教に出られるのに、何も別に親教会からなら色々とその、何から何まで面倒見てくれるような所は、どこもありゃしませんね。まず例えば家を借りる。それも本当に畳み三畳と言った様な所から、皆始められその間借をするとか。ね。熊本の富永先生なんかでも、もうそれこそ小さい小さいお家で、もうお広前とかともすれば雨が降り込み、日が差し込みと言った様なお広前で、やっぱり7~8年くらい辛抱しておられた。ね。
それはどうですかそれこそ、一心を立てての事で御座いましたから、御夫婦が一生懸命なられた。途中で投げ出そうかと言う様な事も色々ありましたでしょう。そういう上で矢張り大家さんがその追い立てををされ、出てくれち。所がねもうそれは5~6年になりますでしょうか。もう年の瀬も押し迫ったという時に、夫婦ででその難儀な問題でどうもしようがないと言うてお願いに見えた。ね。でその事を神様にお取次ぎをさせて頂いたら、あの雪を顕微鏡に見た、いわゆるお花の状態ですね。
あれを顕微鏡で見ますと、一片一片にもうそれこそ、あの幾何学のような模様が、こうそれこそ誰がこういう手の込んだ事をするだろうかと。ただ何んでもない白い雪が降ってるんですけども、その一片一片を顕微鏡で見ると、もうそれは実に丁度明細な花のようなそのなってるですね。皆さんも御承知の通りだろうと思うです。
だから本当に思えば冷たいとこう、まあ何という冷たいしかも突然そう言う事を言うだろうかと思うたら、おかげにゃならんです。そこでなん年ものそれこそ、まあ体はあのように、もう貴方が生きとるとは不思議と言われるくらいな病気はいつも持っちゃるです、富永先生。体の上にですそれでもう良うあれで、まあそのやって行けると言う様な状態の中に、なら追い出しを食ってお願いに見えて。その御理解を頂かせてもろうて、おのずと。例えば一心を立てて初めて布教に出られた。
けれどもその一心が崩れ掛かろうとする時に、合楽に御縁を頂かれた。ね、合楽いわゆる雪は冷たい。大家は冷たいと思わずにもうその雪の一片一片にどの位神様のご深慮、御神意が深いか分からん。こういう手の込んだ事まで神様が言うたり、したりして下さって、貴方がたに力を与えて下さろうとしておるのだから、ここはおかげ頂かにゃいけませんよと言う事でしたけれど。もう12月の31日でしたか、お世話頂いた次の家に移ってから、いわゆる新年のお祭りを頂いて元旦祭を初めてこういう。
まあ広々のではありますまいけれども、今までとは違った元旦祭が仕えられたと言うて、正月お礼に見えられました。しかもその初めて参って来た信者が大変なおかげを受けた。もう何日間の間ですそれは。それでそのそういうその話を聞いて、そんなら私が心当たりを探しましょうと言うて、まああの家専門ですからあそこは。その家専門町の中であって閑静なな、静かなちょっと入り込んだ所で。もう実に勿論寄り付き良い庭も。家も勿論大きな広い家らしい。ね。というお家に入られて。
最近では他に土地を求めて、お広前の建立の話があってるというくらいにおかげを受けちゃるです。傘一本で開けると言う事はです。ね、こちらの頂き方一つである。傘一本で開く開ける。もう一心を立てて、受けるならば害になるものが、何んにもない中に布教に出られて。ね、努力に修行された。けれども神様がこれを試すかのようにです、その一心をもう挫折しなければおられないような時にです、もう私だん難しかろうという時に、合楽に御神縁を頂かれたと言う事がこれであった。
一週間ばっかりの間にもうそれこそ、そういうバタバタ引っ越しも出来るようになり、今までかつてこんなお広前で元旦祭を仕えた事なかったと言うて喜ばれるほどしの、お広前へ打ってつけの、言うならそれがお家であったという事です。ね。そしてまた勿論家においての開き方というものはです、日に新しい信者が4人、5人参って来ん日はないと。一時はそういうおかげを頂かれたです。今は又そう言う所がそれでも、もうガッチリと言うなら合楽風に、お月次祭も三回であったのが4回にされる。
もうその辺が本当に合楽流だとこういう。月に一回必ずこれはお礼参りと、神愛会に必ず出て来られますが、もう本当におかげを頂いておられる証拠だなと言うて、お礼の例えばお初穂なんかを整理した時に、茂さんと二人で話す事です。おかげ頂いとかにゃこういう事は出けんと言うて話す事です。それこそここへ参って来ると、御本部参拝するだけの時間がかかるんですよ、日奈久からここまで。ね。
だから一心を立てる、しかもそれが立て抜かれる。どういう例えばお験しならお験しを受けてもです。そこん所をやり抜いて行って、初めて成程この方の道は傘一本で開ける道と言う事が、気やすう、簡単と言う事じゃなくてです。その一心その言うならば、排水の陣とでも申しましょうかね。もう後ろには一歩でも引けんという生き方なんです。それをその一心発起する事だと思うのです。自分の都合の良か時に参る。
朝参りするのはわずらわしいばってん、その何だかんだと言うて、今日はそげな事でございましたけんでと言う。ね。高橋さん辺りが、もうそれこそ福岡から毎日、毎日、4時の御祈念に間に合うようにと言うて、お参りをされる。( )飛行機で、( )に飯塚より帰って来て、朝の御祈念に参拝される。これは一心発起しとらにゃ出来る事じゃなかです。福岡から朝参りをするというだけでも、人が見習うビックリするごたる事じゃけれどもです、出来るしょうが一心発起してあるからです。ね。
これで道の開けんはずはないです。ね、傘一本で開く事が出けるという。そういう一心発起。言うならば、不退転の心です。何が起きても後ろには引かんそと言う心というその心。ね。そういう心がしだごだしながら、おかげもしだごだで頂いとるから、信心な止められんと言った様な事じゃなくて、そこん所を私はやり抜かせて頂けれる心をです、頂かにゃいけんと思うですね。
そこにです私共が合楽での、まあ言うなら強みとでも申しましょうか。合楽でおかげを頂いておる事だけは、もう日々刻々ならば。ね、神様のお働きと思わなければおられないような働きを、間の辺りに見たり感じたりしながらです、日々を過ごして行ける。いわゆる、天地のお働きなさる、天地が叶えて下さるリズムに乗っての生き方だと、こう言う事です。昨日、特別奉修員の方達の時にお話させて頂いてんですけれども。
例えば最近佐田さんの所に、おばあちゃんのお姉さんに当たられる、所の方ですが。ね。最近毎日毎日大変外にに出るとが不思議で、大変まあ贅沢な生活をしておられるんだそうですから、矢張りもうお年のわりには元気になさる訳です。もうその間に神様の働きと言や、もう只々恐れ入ってしまうと言うて、毎日お届けがありよります。丁度昨日も昨日、一昨日ですか、晩に帰られたんですけども。帰られる前の日かに大川にえつ料理を食べた事がないと言われるので、一家中で行かれた。
もう無いと言いよったけれども行って見た所が、おかげでを与えられてお部屋でやっぱりそのお客さんがあっておった。ああ段々まっ酒が進んで参りますと、やっぱ歌のいっちょも出るごつなる。まあ三味線が出てきた。でこちらの方も勿論まあポーッとして来たと。そしてその隣座席から聞こえて来る、その三味線がもう自分たちの座敷で弾きよる三味線のような感じだったとこう言う。やっぱり座敷に上がったような、きざなようなのじゃない。奥さんが浮き浮きして、あの三味線に合わせてから私が踊りよる。
隣の三味線で踊りよったっち言うんです。お客さんにはまあ踊りを踊って見せたと、こう言うておられる。ね、そのリズムに乗って行っている具合ちゅうものがです。この様に素晴らしいです。ね。私はいつかまだ前に水谷八重子と一緒に見えた時に、久留米に夫婦で見えた時に、大黒物語を致しました。そん時に、あの、隣で義太夫の稽古があっておるという。隣で義太夫の稽古がある。
そこに一対のもう何とも言えん、その拍子の中にね、羽織を着せかけて、そしてその帽子を取ってやって、非常にまあ外出する前の夫婦の間をこまやかな所の演技をしなければならん時、ちょうど隣の部屋から隣じゃない、隣の家から義太夫の、まあ酒屋の段か何かだったと思うです。もうそのリズムに乗って、こちらでは芝居をしておる。それと同じ様なです、信心させて頂くと。ね、その辺にもうそれこそ情緒が漂うて来る。
生活の上でもそうです。有り難いというものが漂わなければおられないような、天地の働きを受けて行けれる。ですからそれは痛い事苦しい事であっても、一つのそのリズムに乗っとるから、おかげを落さんで済むんです。ね。富永先生達の例を取りましたら、そういう、ならリズムというものは感じられなかった訳です。ですからそういう難儀な時に、もうどうしようかと。とにかく夫婦で当時の椛目にお参りをして、というお願いをしようと言う様な事で、まあおかげを受けられたけれども。
私共は椛目で合楽でこうしておかげ受けておる方達は、どういう場合であっても、そのリズムから離れない生き方をするから、良い事も悪い事も皆おかげとして頂けるのです。傘一本で修行その、もう御祈念を済んだ、済んで昨日あの普通あの行き方が皆、その幹三郎も、それから光昭も今度教師拝命のおかげを頂きますから、今日のお祭りに合わせて、兄弟三人で徹君の車で昨日出かけました。それであのもう時間ですから、こう下がっておる所へ、佐田さんが親子三人でお参りして見えた。
部屋に通して頂いて、恵介君が足にこうして包帯をしとる。何事かと思ったら、昨日自動車に跳ねられた。自動車も壊れとるならこっちの自転車だって、そこを飛び出したがけの所を飛び出したんですね。それで跳ねられた。それこそ跳ねられて即死と言った様なのは新聞で今までも見たり、聞いたりするんですけれども。そういうそう言う事であったけれども、もうそれこそかすり傷ち言いよった。
それでそこに毎日治療に行きますが、明日からはもう良かち、言う位のおかげを受けて済んだ。ね。昨日私はお届けさして頂きましたら、今日の御理解じゃないけれども、傘一本を頂き、それにあわせて蛇の目傘を頂いた。今日私は改めてここを頂いた。はあこれは佐田さんの傘一本でおかげを受けられた事だなと、今日私は思う。昨日私はその蛇の目傘がですね、あの蛇の目の傘に白いあの蛇の目ですかこう。こうやって入っとるでしょう。あそこの所の頂いたんです。
ですから傘と言う事は、もうもうここでは安心と言う意味で頂きますよね。だから傘のお知らせは安心と言うけれども。そのあの紫色のいや紺のね蛇の目の傘はそうですけれども。矢張りこの白、白があるという白のわざがあると言う事。ね。その事はまあ言うならば、死を意味する事白と言う事は。ね、だから死んでもおかげ、生きてもおかげという、いわゆる境地こそが安心の境地なんです。生きてもおかげ、死んでもおかげなんだ。ね。本当を言うたらです。
この白い所にもなり兼ねない様な所を、日頃の信心の徳によって、大難は少難にお祭り替えを頂いたという風に、昨日私は聞いて頂いたんです帰りに。恵介くんも子供ながら最近ちょっと信心が、子供ながら落ちておった。二人の姉ちゃん達がもう悲しいけれども、もうどうかこう何回か抜けたからもう、とにかく来ぃにいくぅなってから、そのもうバンドの練習なんかに出て来なかった。昨日はまるしょうでです、恵介くんの噂ばっかりやったそうですよ。
しかしねほんと佐田さん、それだけの二人の姉ちゃんが帰ってから、なんなんという訳じゃったそうです。今日は合楽でこう言うた。したら恵介くんがそうして、事故におうて怪我したという知らせを受けて、おかげを受けたからもうそういう風に、おかげでいわゆる( )。それも明日の内には包帯も取れますから来んのと言われるけれどもの事です。それで愈々のの中に注射を打っとく、いやあ僕は( )言ってから、という訳なんですけどもね。
けれども今日の御理解頂いてから、本当に傘一本で助かったと思うんですね。( )も言うならば、そういう一つの神様のリズムに乗った、言うなら生き方と言う事。ね。そこに日々がそれこそ、ね、この頃から火事に遭われて火事に遭うように、それからまた交通事故に遭おうがです、もうそれこそ有り難い、勿体無いのお礼より他よりなかち。それでも神様はです、大難を少難に。
あの時はお繰り合わせ行ったんだという、そのお礼の心で行けれると言う事なんです。ね、そういう信心は、ならどっから生まれたかと言うと、ならこちらに出らせて頂いて、初めてあの、夏期修行でしたかね。夏の夏期修行ですか。ね、もう今晩からここに一回くらいお参りしようかと。ね、一回だけかでしたかね、何日間でしたかね。50日間ですかね。五十日間一家中でお参りをしようと言う事を思い立たれた。
そして一ヶ月一家中でお参りさせて頂いて、こんなに有り難いならこれは止められんと言うて。今日にそれが続いておると言う事が、その時に一心に思い立たれたから。だからこそ出けとるとでしょうが。ね、六年間それが続けられておると言う事ですよ。それがなら今日私が皆さんに出来る、成そうと思えや成せれるんだと言う事。それもんなら信心の場合はです。段々有り難さや勿体無さや。
信心を分からせて貰うと、喜び楽しみというものが、募って来るから、慣れたら出来やすいです。私は今日はね傘一本で開く事が出来る。なら、傘一本がなかったら出来ないかと言うと、この所出来る出けないと言う所でを、まあ焦点にして聞いて頂いた。ね。とてもあの人の真似は出来んち言うたら出けんです。だから人から真似の出来んと言われるような信心なら、例えば本当に一心発起してです。
私はそれを成して立たせて頂けれると言う様なおかげ。そういう心の状態であって、初めて道が開けると言うか出けると言うか。ね、願望成就と言うか。ね。そういういわば成就のおかげに、この方の道は傘一本で開く事が出来るというのは、私はそういう一心発起の信心をさせてもらって、今までは出けないと思うておった事が出来るというおかげを頂いて、初めておかげが頂けれるという風に思います。